√3は3の倍数である

数弱は焦っていた。テスト終了まで、残り時間はわずか。依然として埋まらない解答欄。何か、何か書かなくては。数弱は、無心でシャープペンシルを走らせた。最後の気力を振り絞る。そこでテスト終了を告げるチャイムが鳴り響いた。——やりきった。白い解答欄の中で、『n=√3α(αは整数)よりnは必ず3の倍数となる』、この文字列が一際輝いていた。

勉強したくないことに理由を与える

幸せってなんでしょうか。

突如として病んだとかそういうのじゃないです、ご安心を。

いや純粋に疑問なんですが、幸せとは一体なんぞや。

例えば私は現在頭ぱっぱかぱーお花畑ライフを送っています。
私はこれで毎日幸せだと感じていますが、周りから見れば「うわぁ底辺オブ底辺だ……可哀想に……」と幸せはおろか哀れみの対象となっているかもしれません。

もっと分かりやすい例をあげるなら、例えば毎日食べて暮らしていくのがギリギリで、常にお腹を空かしている子どもがいるとして、我々はそれを見て「可哀想だ」と判断を下すけれど、その子どもは貧しいなりにも暖かな家庭で過ごせて満足だと考えていた場合これは幸せなのか、
逆に有り余る資産を持って常に満ち足りた生活をしている大富豪がいたとして、我々はそれを幸せだと見るけれど、その本人が現状に満足せずに孤独に苛まれている場合果たしてこれは幸せなのか
煙草を吸うことによって寿命は縮んでしまったけれど、本人はそれを受け入れ毎日好きなだけ煙草を吸ってから死ぬ、そんな人生は果たして幸せなのか

一体幸せの一定ラインを決めるのは誰なのか、はたまたその一定のラインとはなんなのか

わかりません。さっぱり分かりません。

本人が決めることなのか、世間が決めることなのか、それとも人それぞれなのか。

幸せってなんだか難しいですね。

私は毎日ご飯を食べてゲームをして風呂に入って寝ることが幸せ生活の代表だと思っているのですが、一般的にそれはヒキニートと形容され軽蔑される類な気がします。

勉強を頑張って良い大学に入って有名な会社へ就職して結婚して子どもができて孫ができてそれから死ぬ

これが世間一般の幸せ人生設計ですが、私にとってこれは幸せ人生設計になるのか?

わからん

友だちがいなかったけれど勉強ができた中学が幸せだったのか、

友だちはできたけれど驚きの底辺な高校が幸せなのか、


世間で見れば前者、私から見れば後者

よりハッピーなのはどっちなんでしょうか。

わからん

とどのつまりは、勉強がしたくないというこの意思に、なんだかそれっぽい言い訳が欲しいが故の哲学なのです。

題して、勉強したくないことに理由を与えるシリーズ。

ちょくちょくかきたいです。

次に書くなら、現代文の小説問題の「このときの主人公の心情を答えよ」に対する文句。これで勉強したくないことに理由を与えたいです。

幸せかどうかは自分で決めます。周りに流される女では情けないですよね。

私の幸せとは、勉強せずにスマホをいじってSplatoonをやってそのロード時間にpixivを漁りポテチとファンタを食べて飲み、疲れたら風呂に入って寝る生活です。

世間からなんと言われようが私の幸せとはこの生活であり、揺らぐことはないのです。

つまり私は勉強したくないんです。
勉強しないことが幸せの形なんです。
勉強したくない勉強したくない勉強したくない
勉強が嫌勉強せずに寝ていたい

学校はやく終わらないかな。
午後1時のぼやき